最近、短歌を詠むようになりました。
きっかけは、たいしたことではないんですが、なんとなく短歌が楽しいからです。笑
上手く出来たかなぁと思う瞬間は、とても嬉しい感覚になります。
ふるさとの街を思い出して、一句作りました。
やっぱり我がふるさとは、どんな時もわたしの心を癒してくれます。
「青柳の 海の風受け 癒されて 坂をのぼりて 影と泣きたり」
青柳町の海から吹いてくる風に、心が少し癒された。
その風に背中を押されるように坂を登りきったとき、ふと、自分の影と並んで、静かに涙がこぼれていた。
「涙がこぼれていた」という言葉の描写には、抑えきれない思いや感情の解放が込められています。
もし、この言葉に対して、反対の言葉を使う人がいるのであれば、何を意図しているのでしょうか?
「呪詛」という言葉はご存じでしょうか。
わたしの言葉を利用して、「呪詛」をかける人がいます。
「呪詛」とは、悪意を込めて他者に不幸をもたらし、最悪な場合、この世にはいない状態になるような言葉や行動をすることを指します。
古くから、呪詛は言葉や儀式、魔法的な手段を使って他人に害を与える行為とされており、しばしば「呪い」や「呪文」とも結びつけられています。
例えば、「可能性」という文脈を扱うのであれば、「可能性を逃さないように」「可能性を無駄にしないように」「可能性を最大限に引き出すために」などの表現が一般的だと思います。
「涙がこぼれていた」というわたしの言葉に対して、反対の言葉にすることで、いくつかの意味や意図がこめられると判断します。
また、大抵その文脈を見たときに、自然な日本語ではなく、少し違和感を感じます。
要は、言葉を読み解くと、子供が産まれる可能性を阻止したい。という発信者の意図を感じ取れることもできます。
反対に言葉を書き換えることは、物事の逆転を象徴することが多いです。
また、言葉の持つ力というテーマに対し、反対に書き換えることは「言葉そのものに込められた意味」を再考させることになります。
呪詛や否定的な言葉が与える影響を使うことで、何を意図しているのかを示すことになります。
呪詛や否定的な言葉をかけてくる人に対して、いつも付き纏われていますが、未来ある子供のことについて呪詛をかけているのであれば、わたしはかんながらの名のもとにブログを書かざるえません。
「生まれしは 命の祝福 こぼれる涙 歯車回り 天に昇る空」
「生まれしは」は、命が生まれることの喜びを表現し、「命の祝福」は、未来に生まれる子供に対する祝福や希望を意味します。
呪詛を逆転させて、命の祝福、未来への希望、守護のエネルギーを込めた短歌を作りました。
私の作品や言葉に対して、大勢の方が呪詛をかけていることは知っています。
生まれる前から、そしてこれからも、続くものだと思っています。
呪詛の代わりに祝福を、痛みではなく優しさや喜びへと変換して捉えているので、すべては教えとなって、私への導きとチャンスとなっています。
このような考えになるのには、時間が必要でした。それでも少しずつ強くなっています。
「どんな困難があっても、わたしはその小さな命を守り抜く。どんな逆境にも負けない決意で、希望と温もりだけを与え続ける。無条件の愛であなたを包み続ける。」
そんな決意です。
また呪詛というのは、外からの負の意志・干渉であると同時に、それに「反応する」自分の心の中に根を下ろすものでもあります。
つまり、「呪詛を返す」とは、相手を打ち倒すことではなく、自分の中に呪詛が宿らぬよう、どんな時も立ち上がること。
「折れしとて 呪詛の根など 残らじな しなりて立てる 身こそ祓われ」
たとえ折れたとしても、呪いの根のようなものが、私の中に残ることはないだろう。
しなやかにしなって、また立ち上がるこの身こそが、本当に祓われた存在なのだ。
結の一句となります。